堀村の今昔(10)

堀村の釈成法(6)

 五箇山の塩硝

 鉄砲伝来の歴史もそうですが、塩硝(えんしょう)についても、戦国大名や諸藩の軍事上の秘密とされていて、塩硝製造の起源に関する史料といっても、江戸時代末に作成された由緒書や伝承にもとづくよりよりほかありません。
 五箇山(ごかやま、富山県南砺市)における塩硝(えんしょう)製造の起源については、前回もとりあげたたように、堀村の釈成法らが塩硝製造の技術者として本願寺から五箇山に派遣された、あるいは五箇山利賀(とが)の西勝寺(さいしょうじ)が加賀の人で洲崎恒念(すざき‐こうねん)という人物を連れて堺へ行き、塩硝製造法の講習を受けて五箇山へ帰ったとする『真宗五箇山史』の記述[1]があります。
 そのほかに、石山合戦(元亀元年・1570年~天正8年・1580年)に際して、五箇山から大坂の本願寺へ塩硝が送られたという伝承がいくつかあります。たとえば、富山県滑川(なめりかわ)市の養照寺(ようしょうじ)が富山県入善(にゅうぜん)町の養照寺の旧記をもとに書いた「養照寺由緒書控」(弘化2年、1845年)にはつぎのようなことが記されているそうです[2]。滑川養照寺の祐玄(ゆうげん)が富山県黒部市生地(いくじ)の専念寺(せんねんじ)、利賀の西勝寺としめし合せて鉄砲6挺と焔硝を持って船で大坂へ登りました。石山本願寺では諸国の門徒宗があつまって相談の最中で、鉄砲と焔硝を差し出すと、富山県南砺市城端(じょうはな)善徳寺(ぜんとくじ)の空勝(くうしょう)が証如上人と教如上人の前に呼ばれ、両上人はいたく満足されました。それから十数年間、本願寺に味方して石山に詰めていました。利賀の西勝寺の新発意(しんぼち)明順(みょうじゅん)は、五箇山で焔硝をすべて買い集め、船で石山本願寺に送りました。
 このほか、文化10年(1813年)の「五ヶ山塩硝出来次第書」には「天正年中大坂に而本願寺殿異変御座候に付、右判金之代り五ヶ山出来之塩硝不残、大坂え、五ヶ山中為御収納為指登申候に御座候」という五箇山塩硝の由来が書かれています[3]。これら後年に書かれた由緒書や伝承以上に詳しいことはわかっていません。
 五箇山における塩硝製造の確実な史料としては、天正15年(1587年)に五箇山を支配した前田氏の五箇山塩硝の請取状があり、その日付が、慶長10年(1605年)の4月19日となっています。同年より五箇山塩硝が年貢の一部に組み込まれて加賀藩に上納されるようになりました[4]。

 塩硝とは?

 塩硝とは硝酸カリウムのことで、『岩波理化学辞典』(第五版)によると、硝酸カリウム(KNO₃、硝酸カリ、硝石)は無色の斜方晶結晶で、天然に硝石として産出し、400℃付近で酸素を放って分解します。鉄砲の黒色火薬の原料である硫黄、木炭の酸化剤として硝石が使われるゆえんです。塩硝は、可燃物の燃焼を助けてはげしく焔(ほのお)をあげたり煙をだすことから、焔硝や煙硝とも書かれ、古文書では「えんせう」「ゑんせう」などと、かな書きされることもあります。
 硝酸カリウムは、水に溶けやすい性質があり、温暖多雨な気候の日本では、天然の硝石は産出しないものとされています[5]。中国明末の産業技術書『天工開物』(てんこうかいぶつ、1637年)には、「消石」は水に消(と)けるので「消」と名付くとあり(「以其入水即消鎔故名曰消」)、明末の字書『正字通』(せいじつう、1671年)には「硝」の字はもともと「消」で、俗に訛って硝となったとあります(「本作消、俗譌為硝」)。

 五箇山の塩硝製造方法

 鉄砲の火薬の原料である塩硝、硝酸カリウムは、日本では採掘可能な結晶鉱物の硝石として天然には産出しません。それで、戦国大名は明や暹羅(シャム、タイ王国の旧称)から私貿易や密貿易で硝石を入手するとともに、毛利元就のように塩硝の成分を含んだ馬屋の土や床下の土を集めて塩硝を精錬する「土硝法」がひそかにおこなわれていたようです[6]。
 それでは、五箇山ではどのようにして塩硝を製造していたのでしょうか。五箇山での塩硝製造方法は、江戸時代末の「五ヶ山塩硝出来之次第書上申帳」(1811年、五十嵐孫作)[7]という文書等に記されていますが、「土硝法」とはすこし異なっていて、土壌中の微生物を利用して堆肥をつくる方法で塩硝を製造していました。
 その方法は、まず、家屋の床下や囲炉裏の周囲に穴を掘り、板をめくって出入りできるようにしておき、6月の蚕の季節に穴の底にヒエ殻を敷いてから、「麻畑などの水気なきほろほろとしたる上田土」を入れて蚕糞(さんふん)を混ぜ、ヒエ殻、タバコ殻、ソバ殻、麻の葉、ヨモギやサク(シャク、セリ科シャク属)などの山草など身近な植物の蒸し草(堆肥)を敷いて、これらの土や蒸し草を交互に何層にも積み重ね、板で塞ぎ、8月上旬に掘り起こして混ぜ返し、蚕の糞や蒸草を補充します。この作業を翌年から春夏秋の3度、4年ほど繰り返し、5年目の冬に塩硝ができた土を掘り出して、それを灰汁(あく)で煮て、塩硝を結晶にして取り出します。6年目からは上記のようにして毎年掘り起こして塩硝を取り出せますが、隔年で取り出すほうが塩硝を多く取り出せる、というものです。五箇山で戦国時代にすでにこれと同じ方法で塩硝が製造されていたのかどうかはわかりません。

 微生物の硝化作用を利用

 植物の肥料の3要素の1つである窒素は、無機態窒素(I-N)の窒素ガス(N₂)として大気の体積の約8割をしめ、土壌や地下水、河川や海には、アンモニウムイオン(NH₄⁺)のようなアンモニア態窒素(NH₄-N)や硝酸イオン(NO₃⁻)のような硝酸態窒素(NO₃-N)の形で広く存在しています。
 大気中の窒素ガスは、落雷や紫外線、微生物によってアンモニアに変化します。その多くは、アゾトバクターやシアノバクテリア、マメ科の植物に共生する根粒菌などの窒素を固定する能力をもつ微生物の作用にるものです。このアンモニアは、光合成をおこなう植物や細菌などによって各種のアミノ酸やタンパク質などの有機態窒素(O-N)へと同化され、食物連鎖によってその一部が草食動物から肉食動物へと移行していきます。微生物や動植物の遺骸、排泄物などの有機物は、分解されて再びアンモニウムイオンへと変化します。このアンモニウムイオンは、亜硝酸菌(アンモニア酸化細菌)の作用によって亜硝酸態窒素(NO₂-N)の亜硝酸イオン(NO₂⁻)へと酸化された後、さらに硝酸菌(亜硝酸酸化細菌)の作用によって酸化されて硝酸態窒素(NO₃-N)の硝酸イオン(NO₃⁻)になります[8]。
 硝化とよばれるこの過程には酸素が必要ですので、これらの硝化菌は好気性細菌と呼ばれ、通気性のよい土壌や酸素の多い水中で繁殖します。五箇山では、「麻畑などの水気なきほろほろとしたる上田土」が使われていましたが、この硝化菌の繁殖に適していたのでしょう。さらにヒエ殻やソバ殻で通気性をよくしていました。この土の中で、硝化菌が生み出した硝酸イオンとカリウムイオン(K⁺)を反応させて塩硝を製造していました。
 五箇山は庄川沿いの花崗岩が侵食されてできた河岸段丘上の集落で[9]、明治時代の土性の説明書によれば[10]、粘性に乏しい砂質土壌のため土壌の通気性はよく、養分は少ないが、吸着力があるので、カリ、リン酸、石灰、チリ硝石、硫安、アンモニア等の水溶性肥料が流亡する心配がなく、堆肥など有機質肥料を用いればより土壌に窒素の蓄積が促進されるとしています。また、塩硝の成分のカリウム(K)は、花崗岩の鉱物成分の1つであるカリ長石に含まれています。花崗岩の風化にともなってカリウムイオン(K⁺)が流れ出します。土に混ぜ込むタバコ殻や塩硝土を煮出して硝酸カリウムの結晶をつくるための木灰汁にはカリウムが豊富に含まれていたと思われます。
 さらに、蚕糞は有機態窒素が豊富です。堆肥について記した本には、蚕糞は「発熱し易(やす)く之(これ)を堆積の侭(まま)に置く時は忽(たちま)ち分解発熱し恰(あたか)も物の燃焼するが如(ごと)くになり」とあります[11]。「五ヶ山塩硝出来之次第書上申帳」には、床の敷板が熱気で反り返るので大釘で打ち付け、冬もはなはだ暖かい、とあります。硝化菌は寒冷地でも硝化作用をしますので、床下や囲炉裏の近くに穴を掘ったのは、塩硝製造を隠すためと、冬季の暖房を兼ねていたのかもしれません。

 次回は、戦国時代の堀村と塩硝の関係について考えてみたいと思います。


 [1]『真宗五箇山史』(1967年修補版、高桑敬親)
 [2]『越中五箇山平村史』上巻(1985年、平村史編纂委員会)180頁~181頁
 [3]『富山県史』史料編Ⅳ(1978年、富山県)647頁
 [4]『富山県史』通史編4近世下(1983年、富山県)194頁~195頁
 [5]1966年の東京文化財研究所の研究報告によれば、雨のかからない岩窟にある栃木県宇都宮市の大谷磨崖仏で、透水性のある凝灰岩から地中の硝酸ナトリウムなどの塩類の結晶が局所的に析出し、磨崖仏を風化させています。
 [6]『歴史群像アーカイブ Vol.6』(2008年、学習研究社)所収桐野作人著「戦国火薬考」
 [7]富山大学附属図書館蔵の画像が公開されている。
 [8]近年は、海外から食料や畜産物の飼料が大量に輸入されるようになったことから、それらの消費による排泄物や廃棄物の増加によって、過剰となった亜硝酸態窒素や硝酸態窒素が土壌や作物、地下水を汚染し、また、窒素、リンなどの栄養塩類による河川や湖沼、海域の富栄養化や赤潮を招くようになった。反対に、農産物の輸出国では、森林や草地の開発、水不足によって砂漠化が進行し、輸出による窒素不足を補うための大量の化学肥料の使用によって土壌や作物、地下水の汚染が深刻になっている。
 [9]『庄川水系の流域及び河川の概要(案)』(2007年、国土交通省河川局)、『5萬分の1地質図幅説明書 城端』(1964年、地質調査所)
 [10]『越中国土性図説明書』(1905年、農商務省地質調査所)
 [11]『自給肥料緑肥及堆肥』(1916年、岡崎一)

文責・駒井守

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堀村の今昔(9)

堀村の釈成法(5)


 塩硝技術者・釈成法

 本願寺第10世証如上人が摂州住吉郡堀村の釈成法に授けた「方便法身像裏書」が、なぜ『富山県史』や『越中真宗史料』に収録されているのでしょうか。「堀村の釈成法(3)」でも書きましたが、『富山県史』史料編2「附録」の「銘文抄」には、「この裏書は『真宗五箇山史』より採録」となっていましたので、国立国会図書館所蔵の『真宗五箇山史』(しんしゅう‐ごかやま‐し、1966、1967修補版、高桑敬親氏による謄写版)を見てみました。すると、そこには堀村の釈成法に関する意外な事実がありました。

 釈成法が生きた時代

 『真宗五箇山史』の内容にふれる前に、釈成法が生きた戦国時代についてごく簡単に記します。室町幕府の管領(かんれい)畠山氏の家督をめぐる争いに幕府や細川氏、山名氏など守護大名が加わって東西両軍に分れ、京都は双方の軍勢が入り乱れてたたかう戦場となりました。この応仁・文明の乱(おうにん‐ぶんめいの‐らん、1467年~1477年、応仁の乱)の結果、室町幕府の守護にたいする統制は崩壊し、戦国時代がはじまりました。日本各地で下剋上(げこくじょう)にもとづく戦国大名が登場し、覇権をめぐって争奪を繰り広げるという戦国争乱の時期が1世紀もつづきました。

 北陸の戦国時代と浄土真宗

 北陸地方では、本願寺第8世宗主蓮如(れんにょ)上人が巡錫(じゅんしゃく)し、越前で吉崎(よしざき)御坊(福井県あわら市)を創立したのが文明3年(1471年)のことでした。以後、浄土真宗が越前・加賀・能登・越中の地で勢力を拡大しました。戦国大名たちは、北陸各地の荘園を自国の領土とし、荘園のなかからは惣村(そうそん)が生まれてきました。蓮如はこの惣村の農民などに門徒を拡大し、門徒たちは、本願寺を中心に団結しました。加賀では、長享2年(1488年)に門徒を中心とする農民や国人たちの一向一揆によって守護大名の富樫政親(とがし‐まさちか)が攻め滅ぼされました。その後90年間「近年ハ百姓ノ持タル国ノヤウニナリ行キ候」(先啓編『実悟記拾遺』、『真宗全書』続編第18巻130頁)とよばれるほど、北陸地方では一大勢力となりました。そして、本願寺は武田信玄、上杉謙信、浅井長政、朝倉義景、織田信長などの戦国大名との政治的軍事的攻防に否が応でも直面することになりました。

 本願寺を支援した五箇山

 越中の五箇山(富山県南砺市)は、上梨谷・下梨谷・小谷(旧平村)、赤尾谷(旧上平村)、利賀谷(旧利賀村)の5地域の名称で、隣接する岐阜県の白川郷とともに合掌造り集落として世界文化遺産に登録されている観光地です。戦国時代、蓮如上人の直弟で赤尾の道宗や利賀(とが)の明栄が行徳寺(南砺市西赤尾)、西勝寺(南砺市利賀村)などを開山しました。以来、集落ごとに道場がつくられ、浄土真宗の寺院数の多さから「真宗王国」といわれる富山県でも、とくに信仰が篤い地域となっています。『本願寺史』上巻(2010、本願寺出版社)によると、戦国時代の本願寺教団は直参身分の者と非直参身分の者の二つに大別され、直参身分の者にはほとんどの場合、宗主の御影が授与されました。直参身分の者は本山年中行事などに出仕し、何らかの役を担い、宗祖あるいは宗主の眼前にじかに参ずることが必要で、たとえば宗祖直弟という由緒だけでは直参身分を象徴する宗主御影は授与されませんでした。越中では五箇山衆は河上衆とともに本願寺の直参として、実如宗主の葬儀や蓮如宗主年忌法要の非時(ひじ)頭役(とうやく)という重責を担っていました。

 石山本願寺が釈成法らを越中五箇山へ派遣

 さて今回の本題ですが、『真宗五箇山史』には、元亀(げんき)元年(1570年)に織田信長が石山本願寺を攻めた「石山合戦」がはじまったとき、本願寺が金沢の尾山御坊(おやまごぼう、御山御坊、御坊跡地には金沢城が築かれた)へ鉄砲を送り、その火薬や火縄の原料となる塩硝(えんしょう、焔硝、硝酸カリウム結晶の硝石)を製造するための技術者を五箇山(現在の富山県南砺市)へ派遣したと書かれています。その傍証として、五箇山には「摂州住吉郡堀村願主釈成法」に授与された本願寺第10代宗主証如の花押のある本尊裏書のほかに「摂州西成郡北野村釈良山」に授与された第11代宗主顕如の花押のある本尊裏書が伝わっていることをあげています(摂州西成郡北野村の位置は、前回「堀村の釈成法(4)」「門徒分布図」の赤い●印を参照)。また、西勝寺が加賀の人で洲崎恒念という人物を連れて大阪の堺へ行き、塩硝製造法の講習を受けて五箇山へ帰ったとも書かれています(『真宗五箇山史』修補版20頁)。
 摂州西成郡北野村の釈良山とともに塩硝製造の技術者として本願寺から五箇山まで派遣された堀村の釈成法は、門徒の証明となる大切な「方便法身像裏書」を携えて行き、それが現在も五箇山に伝わっているということなのでしょう。しかし、『真宗五箇山史』のこの部分は『富山県史』など地元の郷土史にはほとんど取り上げられていません。日本史における鉄砲伝来とその普及、塩硝製造の起源に関わる重要な問題ですので、なおさらこうした伝承は史料よりも軽視されることになります。「堀村の今昔」の第4回では「長居村の地名」として堀の「鉄砲島」(てっぽうじま)を取り上げ、「周辺の村からも離れた場所ですので、人家を避けて鉄砲の試射をしたところでしょうか」と推定しました。この鉄砲島の地名と、塩硝製造の技術者として本願寺から五箇山へ派遣された堀村の釈成法の話は、偶合(ぐうごう)にすぎないのでしょうか。


文責・駒井守

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堀村の今昔(8)

堀村の釈成法(4)


 戦国時代の本願寺

 『本願寺史』上巻(2010、本願寺出版社)によれば、本願寺第8代宗主の蓮如(れんにょ)上人のころは「六字名号」の本尊が主流でしたが、次の実如(じつにょ)上人の時代には阿弥陀如来の絵像本尊(方便法身像)が主流となりました(同書425頁)。堀村の釈成法が本願寺第10代宗主の証如(しょうにょ)上人から「方便法身像」を下付された天文(てんぶん)6年(1537年)は、戦国時代の真っ只中でした。
 荘園制の崩壊とともに、群雄割拠する戦国大名による領国支配が進展し、農民や漁民は絶え間ない戦乱の犠牲となってきました。親鸞聖人が開いた浄土真宗は、農漁民のあいだだけではなく、これまで「悪人」とされてきた、生き物を殺す者・酒を商う「屠沽下類」(とこげるい)の人びとを「れふし・あき人、さまざまのものは、みな、いし、かわら、つぶて、のごとくなるわれらなり」(『唯信鈔文意』、『浄土真宗聖典』註釈版第2版707~708頁、本願寺出版社)と呼んで、商工業者のあいだにも急速に広まりました。
 また、戦国時代には武家が確立して女性の男性への隷属が強まるとともに、旧仏教によって女性は罪障が深く浄土に往生できないとされ、神道でも女人禁制など「穢れ」の思想によって女性は差別されてきましたが、蓮如上人は『御文章』の中で何回も「それ阿弥陀如来は、すでに十悪(じゅうあく)・五逆(ごぎゃく)の愚人(ぐにん)、五障(ごしょう)・三従(さんしょう)の女人(にょにん)にいたるまで、ことごとくすくひまします」(『御文章』三帖、『浄土真宗聖典』註釈版第2版1146~1148頁)と、男女等しく救済されることを説きました。
 門徒の拡大とともに守護や地頭、戦国大名らの圧迫も強まり、天文元年(1532年)には山科本願寺が六角定頼(ろっかく‐さだより)や法華宗徒等により焼かれ、翌年、証如上人は寺基を大坂の石山へ移しました。摂津・河内・和泉における本願寺の勢力はいっそう拡大しました。元亀(げんき)元年(1570年)、織田信長は石山本願寺を攻め、天正8年(1580年)に本願寺が石山を退去するまでの、11年間におよぶ「石山合戦」(いしやまかっせん)がはじまりました。

 門徒衆の分布

 この時期の本願寺の寺院や道場、門徒衆の分布図を、峰岸純夫氏の『大名領国と本願寺教団』(1974年「日本の社会文化史2」『封建社会』所収/1984年「戦国大名論集13」『本願寺・一向一揆の研究』所収)に掲載されている「16世紀(天文期)摂津・河内・和泉 本願寺門徒分布図」および『大阪の町と本願寺』(1996年、大阪市立博物館)掲載の同「分布図」に図示さえている地名から拾って作成しました。『大名領国と本願寺教団』の分布図の真宗寺院・道場・門徒組織は「証如の『天文日記』を中心に構成」(『大名領国と本願寺教団』)して図示したものとしていています。地形図は、上記分布図の西除川が新大和川開削後の川筋となっていたため、開削以前の川筋を示す『大阪市史』附図(1926年再版、大阪市役所)所収の「大和川附替図」(木崎盛政製図)を参照しました。


 平野の光永寺

 前回でも紹介したように、天文8年3月15日付の日記に「河州堀者〔光永寺下〕」が登場します。分布図の摂津国の住吉(すみよし)郡に「堀」という地名があります。この光永寺というのは、現在も大阪市平野区平野本町1丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院で、『天文日記』によく登場し、天文5年(1536年)6月15日の日記には、「平野衆」と呼ばれる光永寺の門徒200人ばかりが大坂の本願寺の普請にきたことが記されています。『大阪府全志』と『東成郡誌』によると、光永寺は蓮如上人が石山坊舎を建てたのと同じ明応5年(1496年)の創立(開基は坂上田村麿の後裔釈明鎮)となっています。その後、石山合戦の功により本山兼帯所として「平野御坊」の称を許可されていましたが、明治5年(1872年)にもとの光永寺に改称しました。

 河内国の堀の者

 この光永寺門徒の「河州堀者」は「河内国の堀の者」の意味ですが、どうして『大名領国と本願寺教団』や『大阪の町と本願寺』の分布図では「摂津国住吉郡」に図示されているのでしょうか。『応仁後記』巻之上「河州正覚寺城合戦畠山政長自害事」(『改訂史籍集覧』第3冊、1900年、近藤瓶城編)には、「河州正覚寺城」「河州平野城」とあります。正覚寺城(しょうがくじ‐、大阪市平野区加美正覚寺)は、河内国守護の畠山政長(はたけやま‐まさなが)が陣をおいた場所で、明応2年(1493年)に摂津など4ヵ国の守護の細川政元(ほそかわ‐まさもと)の軍に攻められて戦死し、足利義材(あしかが‐よしき、義稙)も細川政元によって将軍職を追放されました。『平野郷町誌』(1931、平野郷公益会)に掲載されている宝暦13年(1763年)の「摂州平野大絵図」を見ると、平野郷町内の北東部を摂津国と河内国の境界となっている平野川(東除川)が流れており、対岸の河内国渋川郡賀美郷に正覚寺(廃寺)が描かれています。中世の自治都市として発展してきた平野は、本来は摂津国の住吉郡に属しているのですが、中河内地域の交通や流通の中心として河州として認識されることもあったようです。摂津国住吉郡の堀村も河内国との国境に接していますので、河州と誤認された可能性もすてきれませが、摂津国住吉郡の堀村の南東3キロメートルには河内国丹北郡の堀村が存在します。

 河内国丹北郡の堀村

 河内国丹北郡の堀村は、現在の松原市天美南4丁目、5丁目の堀地区にあたります(「分布図」の丹北郡の赤い●印)。寛文2年(1662年)、宝憧の創建(『大阪府全志』第4巻670頁には寛文9年創立、法道の開基とする)した真宗大谷派の貞正寺(ていしょうじ)があります。集落の西側を西除川(狭山池西除筋天道川)が北流し、西除川の西には依羅池除筋の駒川(巨摩川)、東には排水用水路の今川が流れ、大和川付け替え以前はこの三本の川が平野川と合流していました。大和川付け替え後は、西除川は川筋を西へ変えられてJR浅香駅付近で新大和川に合流し、新大和川以北の旧西除川は埋められて新田開発されました。文禄3年(1594年)に長束大蔵大輔の検地をうけており(『松原市史』資料集第8号)、堀遺跡からは奈良時代の水田の遺構などがみつかっていますので(『古代西除川沿いの集落景観』「堀遺跡」、2010、狭山池博物館)、古くから存在する集落であることはまちがいないでしょう。

 「永光寺門徒」は「光永寺門徒」の誤り?

 『大名領国と本願寺教団』によると、摂・河・泉における真宗寺院・道場・門徒組織の分布は、武庫川・猪名川筋、淀川・神崎川筋、大和川筋、堺および泉南海岸地域の四つに区分され、本願寺教団の教線の発展は、河川・海上の流通路と関連する水運業者・労働者(船頭)・商人・手工業者などが集住するところに真宗の信仰が広まり、門徒組織(講)が形成されていったと考えられるとしています。また、『中世社会と一向一揆』(1985、吉川弘文館)所収の『久宝寺寺内町と河内門徒』(上場顕雄)では、旧大和川筋に散在し久宝寺寺内町に連なる門徒衆を『天文日記』から抽出し、八尾街道沿いでは摂津の平野衆(光永寺)、田島衆、長居衆をあげていますが、そこに八尾街道沿いある住吉郡の堀村の名はありません。そうすると、『天文日記』に登場する「河州堀」は西除川や平野川を通じて平野の光永寺や大坂の本願寺に舟運があったと思われる河内国丹北郡の堀村である可能性がますます高くなり、無理に摂州住吉郡堀村と結びつける必要がなくなります。そして、摂州住吉郡堀村の釈成法が天文6年に証如上人から授かった「方便法身像裏書」に「永光寺門徒」とあるのは、証如上人が「光永寺」を「永光寺」と書き間違ったからではないか、などと悩む必要もなくなります(この「永光寺」と堀村、現在の瀧光寺との関係については、機会があれば「堀村の今昔」で取り上げたいと思います。
 『天文日記』に記されていなくても、住吉郡の堀村周辺には寺岡村の真光寺と西法寺(いずれも浄土真宗本願寺派、以下本願寺派と略す)、遠里小野村の安養寺(本願寺派)、我孫子村の圓満寺(本願寺派)、苅田村の西光寺(真宗大谷派、以下大谷派と略す)、庭井村の引接寺(大谷派)、杉本村の光明寺(本願寺派)と圓覚寺(大谷派)など、戦国時代に創建されたと伝えられる寺院が数多く存在しており(『大阪府全志』『東成郡誌』の当該寺院の記述によります。各寺院の所属教団は平成26年度『大阪府宗教法人名簿』によります)、古くから本願寺の門徒組織が形成されていたものと考えられます。
 次回は、摂州住吉郡堀村の釈成法が下付された「方便法身像裏書」が、なぜ富山県に伝わっているのか、考えてみたいと思います。

文責・駒井守

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堀村の今昔(7)

堀村の釈成法(3)


 天文日記

 角川の『大阪府地名大辞典』には、天文6年(1537年)4月30日に本願寺門主の証如上人が願主である永光寺門徒で摂州住吉郡堀村の釈成法に方便法身像を下付した「方便法身像裏書」のことが記されています。前回でも書きましたが、堀村や現在の瀧光寺の淵源がその時代にまでさかのぼる可能性があるということです。
 そこで、この裏書について大阪府立図書館の職員の方に調べていただいたところ、『富山県史』史料編2(中世)(1975、富山県)の「附録」の「銘文抄」にその「方便法身像裏書」が収録されており、ほかに『越中真宗史料』(1997、桂書房、「越中資料集成」の別巻1)の「現存裏書」、『一向一揆の研究』(1981、春秋社)にも収録されているとのことで、確認してみるとすべて同一の内容でした。
 『富山県史』史料編2(中世)「銘文抄」二の七七の「方便法身像裏書 木本勝太郎氏」には、裏書の中上段中央に「方便法身尊形」という絵像の名前があり、下段に右から、

1行目に門主名「本願寺釈証如(花押)」、
2行目に年月日「天文六年〔丁酉〕四月卅日」、
3行目に「永光寺門徒」、
4行目に「摂州住吉郡堀村」、
5行目に「願主 釈成法」

となっています。『越中真宗史料』のほうは『一向一揆の研究』から引用したもので、引用元の『一向一揆の研究』のほうはどこから裏書を引用したのか、明記してありませんでした。出版年から考えると、『一向一揆の研究』の裏書は『富山県史』からの引用だと考えられます。また、『富山県史』の「銘文抄」の裏書には、『真宗五箇山史』(1966、1967修補版、高桑敬親氏による謄写版)から採録したものだということが明記されていますので、もともとこの裏書は『真宗五箇山史』に掲載されていたものだということがわかります。

 裏書にある釈成法の生きた天文(てんぶん)年間の状況は、証如上人の『天文日記』(てんぶんにっき、光教日記・証如上人日記、以下『天文日記』)によって知ることができます。『天文日記』の自筆本は本願寺に所蔵されており、「本日記には本願寺の行事や、末寺・門弟との往来、宮廷や公家・大名・町衆等と交渉が具体的に記され、石山本願寺の勢力拡大や、本願寺を通して当時の世相が窺われ、室町後期の根本史料として貴重である」(文化庁の解説文より)として、国の重要文化財に指定されています。翻刻されたものは、『石山本願寺日記』(1930、上松寅三編纂校訂)上巻に『證如上人日記』として収録されており、その復刻版が索引付きで1966年~1968年に清文堂出版によって出版されています。また、『真宗史料集成』第3巻「一向一揆」(1979、同朋舎)にも収録されており、『大系真宗史料』(法蔵館)の「文書記録編」8‐9に収録が予定されています(2015年7月現在未刊)。

 河州堀者

 この『天文日記』には、「長井」や「堀」という地名が登場します。「堀」については、「天文八年(1539年)三月中」の日記に登場します(「長井」については、この「堀村の今昔」で改めて取り上げたいと思います)。
 天文8年3月15日付の日記には「斎を河州堀者〔光永寺下〕親の年忌志として調之候。相伴に常住衆両人、番衆四人也。相伴に常住衆兩人、番衆四人也。兼与、兼智、兼盛也。仍汁三、菜八、菓子七種。相伴衆計也。於布施者、愚に百疋、兼与に卅疋、又両人へ廿疋ヅヽ」(『石山本願寺日記』上巻)とあります。光永寺下の河内の堀の者が、親の年忌の法要でお斎(とき)を準備し、本願寺の常住衆や番衆に食事をふるまい、証如上人らに志を渡したという意味です。
 河州(かしゅう)というのは、大阪府にあった河内国(かわちのくに)の別称です。摂津国(せっつのくに)は摂州(せっしゅう)、和泉国(いずみのくに)は泉州(せんしゅう)と称しました。
 疋(ひき、匹)というのは当時の銭の単位です。室町時代には中国の明の永楽銭(えいらくせん、永楽通宝、銅の一文銭)が日本に輸入されて通貨として使用されていましたが、輸入量が減ったために、鐚(びた)とよばれる粗悪な私鋳銭が国内で大量に流通するようになり、鐚銭四文が永楽銭一文に替えられました。江戸時代の『地方落穂集』(じかた‐おちぼしゅう)によれば、鐚百文のうち、十文ずつの間に駒曳銭(こまびきぜに、馬代)を一文加えたので、鐚十文を一匹、百文を十匹と呼ぶようになり、鐚四貫文(一貫文は一文銭で千枚)が金一両、鐚一貫文が金一分(金四分で金一両)として通用したとあります。百疋は、永楽銭なら一貫文、金一両に相当します。「愚に百疋、兼与に卅疋、又両人へ廿疋ヅヽ」とありますので、永楽銭で合計1700枚、その重量は8キログラムを超えます。
  ところで、「方便法身像裏書」にある「摂州住吉郡堀村」は『天文日記』の河州の堀と同じなのでしょうか。次回は、この点について考えてみたいと思います。


文責・駒井守

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堀村の今昔(6)

堀村の釈成法(2)


 方便法身像裏書

 角川の『大阪府地名大辞典』の「堀」の地名見出しには<東住吉区>とあり、住吉区と間違えているのが残念ですが、その年代別の〔中世〕堀村の項目にある「天文6年4月30日の方便法身像裏書(木本勝太郎氏所蔵文書/富山県史史料編2)」の「方便法身像」とは、いったいどういうものなのでしょうか。

 方便

 まず、「方便」についてですが、『浄土真宗聖典(註釈版)第二版』(本願寺出版社)に解説してありましたので、それを紹介します。
―― 補註 15 方便(ほうべん)・隠顕(おんけん) 方便とは、仏が衆生(しゅじょう)を救済するときに用いられるたくみな方法(てだて)をいう。その中に真実と権仮(ごんけ)とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化(きょうけ)の方法で、随自意(ずいじい)の法門をいう。それは、大智を全うした大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度(さいど)されるというので、善巧(ぜんぎょう)方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身(ほっしん)というときの方便がそれである。権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮にしばらく誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意(ずいたい)の法門を権仮方便という。「方便(ほうべん)化身土(けしんど)」といわれるときの方便がそれである。

 法性法身と方便法身

 法性法身と方便法身という阿弥陀仏の二つのありようについては、親鸞聖人(しんらんしょうにん、1173年‐1263年)が『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の「顕浄土真実証文類 四」のなかで「諸仏・菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は、異にして分つべからず、一にして同じかるべからず」とのべています(『浄土真宗聖典(註釈版)第二版)』321頁~322頁)。これは、真宗の七高僧の一人である曇鸞大師(どんらんだいし)が『無量壽經優婆提舍願生偈註』(むりょうじゅきょう‐うばだいしゃ‐がんしょうげ‐ちゅう、往生論註、浄土論註、論註)のなかで明らかにしたことを引用したものです。
 親鸞聖人は『唯信鈔文意』(ゆいしんしょう‐もんい)で、さらにくわしく教えています。
 「仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゑへに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず、無明の闇をはらひ、悪業にさへられず、このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし」(『浄土真宗聖典(註釈版)第二版)』709頁~710頁)。

 浄土真宗の本尊

 つまり、法性法身という阿弥陀如来のほんとうの姿は、色も形もなく言葉でも言い尽くせず、わたしたちには見えない超越したものですが、衆生のために方便法身という形を示してあらわれ、智慧光を放って無明の闇を払う南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)という御名をしめしたのであり、方便法身像や方便法身尊形というのは、そのすがたを絵像(えぞう)にしたものです。尊形とは尊いすがたのことです。角川の『大阪府地名大辞典』にある「天文6年4月30日の方便法身像裏書」とは、その絵像の裏書のことです。
 浄土真宗の本尊には、阿弥陀如来の木像(もくぞう)や絵像、「帰命尽十方無碍光如来」(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)の十字名号(みょうごう)、「南無不可思議光如来」(なもふかしぎこうにょらい)の九字名号、「南無阿弥陀仏」の六字名号などがあります。木像も絵像も名号も、浄土真宗では大小上下の差はなく、御本尊として同等です。

 本願寺の勢力拡大と本尊

 戦国時代、浄土真宗の本願寺は、守護や戦国大名など武家勢力とたたかいながら勢力を拡大してきました。明応5年(1496年)、蓮如上人が大坂石山に坊舎を建立してからは摂津、河内、和泉にも本願寺の門徒が急増し、御本尊が下付されました。『空善記』には「おれほど名号かきたる人は日本にあるまじきぞ」と蓮如上人がおっしゃったという記事がありますが、求める人びとにはすべて御本尊を下付したのでしょう。
 御本尊のほかに、本願寺が末寺や道場、門徒に下付した免物には、御開山(ごかいざん)御影(ごえい)、御絵伝(ごえでん)、歴代宗主(そうしゅ)御影、聖徳太子(しょうとくたいし)像、七高僧(しちこうそう)像などがあります。
 御開山御影は宗祖(しゅうそ)親鸞聖人の肖像、御絵伝は親鸞聖人の生涯、歴代宗主御影は蓮如上人はじめ本願寺の歴代宗主の肖像をそれぞれ描いたものです。七高僧は、親鸞聖人が真宗の祖師(そし)と定めた七人の高僧のことで、インドの龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)・天親菩薩(てんじんぼさつ、世親菩薩)、中国の曇鸞大師(どんらんだいし)・道綽禅師(どうしゃくぜんじ)・善導大師(ぜんどうだいし)、日本の源信和尚(げんじんかしょう、恵心僧都)・源空上人(げんくうしょうにん、法然上人)の七人です。聖徳太子は、日本に仏教を広めた「和国の教主」とされています。
 御本尊をはじめ、こうした古い時代の免物が、戦乱や星霜にたえて現存しているものは多くはありません。堀村の釈成法に下付された「天文6年4月30日の方便法身像裏書」の存在は、浄土真宗をめぐるたたかいの渦中に堀村があったことをうかがわせるものです。

文責・駒井守

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堀村の今昔(5)

堀村の釈成法(1)


 旧堀村の歴史は古いと思われますが、歴史の資料については、とぼしい状態です。住吉区関連の地誌では、たとえば『住吉村誌』があります。それは、大阪市編入を目前にして、消え行く住吉村の記録を残すために編集が企図され、大阪市編入後の昭和3年(1928年)に住吉常盤会によって出版されたものです。しかし、資料収集をはじめたときにはすでに村は解散しており、大阪市や住吉区に引き継いだはずの住吉村の資料、は整理されずにそのまま雑然と放置され、町村制実施以前の資料や明治維新以前の古記録にいたっては、ほとんど散逸して現存するものがなかったそうです(同書「凡例」)。「村誌」の発行されなかった長居村についても、おなじ状況ではなかったかと推察されます。そうしたなかで、大阪市編入前の郷土史の研究に貴重な資料を提供してくれるのが、『大阪府全志』と『東成郡誌』です。

 『大阪府全志』と『東成郡誌』

 大阪市編入前の大正11年(1922年)、井上正雄(いのうえ‐まさお、1866年‐1924年)氏が編集発行した『大阪府全志』(全5巻)は、当時の郡村部の役所や神社・寺院に保存されていた資料を収集し、地誌として出版されたものです。同じ年に当時の東成郡役所は、著名な歴史学者で法制学者の三浦周行(みうら‐ひろゆき、1871年‐1931年)博士を監修者とし、東成郡内の各町村と協力して資料を収集して『東成郡誌』の地誌を編集発行しました。さらにその後、三浦博士が協力して『住吉村誌』や『平野郷町誌』など郡内各町村誌がつぎつぎと発行されました。また、堺市は、明治時代に市史編纂を企図し、先行して市史編纂をはじめていた大阪市の編纂主任で歴史家の幸田成友(こうだ‐しげとも、幸田露伴の弟)氏に編纂委嘱をもとめたのですが、大阪市参事会はこれを認めませんでした。堺市は単独で市史の編纂を計画したのですが、うまくいきませんでした。しかし、関東大震災で東京では貴重な歴史資料が失われた現実から、再び市史編纂に着手し、すでに『堺港之研究』(1913、堺市役所)を出版していた三浦博士の協力を得てようやく『堺市史』(1929年‐1931年、堺市役所)の刊行に至ったのでした。堺市は昭和20年(1945年)の大空襲によって歴史の資料の多くが焼失してしまったのですが、記録としては『堺市史』編纂事業の中に残されていたので、今日も歴史を継承していくことが可能になっています。郷土史研究でよく利用される角川の『大阪府地名大辞典』や平凡社の『大阪府の地名』(日本歴史地名体系28)の旧堀村に関する主要な内容も、これらの記録に依拠しているといってよいでしょう。

 井上正雄氏の伝記

 とくにここで記しておきたいのは、井上正雄氏についてです。『東区史』(1939、東区役所)第5巻所収の井上正雄氏の伝記が紹介するところによると、井上正雄氏は、宮崎県の新聞記者、県会議員をへて大阪府の地方課職員となりました。井上氏は、職務を通じて府内各町村の沿革が不明となっているものが多いことを知りました。そこで、1910年から資料調査に着手したのですが、日常業務との両立が困難となり、1913年、ついに意を決して職を辞し、すべてをなげうって一人で府内市町村を巡り、役所の記録や寺社・個人宅に蔵されている資料、里伝を採集することに専念したのでした。1919年には『大阪府全志』3篇の大著が完成したのですが、私財を費やしても出版することは容易ではありませんでした。井上氏と彼をささえつづけた夫人や兄の堅忍不抜の努力は、人びとを感激させ、やがて大阪府や大阪市の知るところとなって、『大阪府全志』出版事業に補助金が贈られることになりました。その後も編集作業はつづけられ、1922年、職を辞してからじつに10年の歳月をかけて『大阪府全志』全5巻が出版されたのでした。その後、1924年から関東大震災の救援誌の編纂にたずさわっていましたが、直後に病臥に倒れ、亡くなりました。後世に生きる私たちが、郷土の歴史を知ることができるのは、活字となって残されている『大阪府全志』や『東成郡誌』という記録のおかげであり、井上氏はじめこれら二著の完成のために粉骨砕身された方々への感謝の念を、決して忘れてはいけないと思います。

 方便法身像裏書

 さて、角川の『大阪府地名大辞典』と平凡社の『大阪府の地名』の「堀村」の項目には、『大阪府全志』や『東成郡誌』に記載されていない内容、つまり後に見出された史料にもとづくものがいくつかあります。そのひとつが、「方便法身像裏書」(ほうべんほっしんぞう‐うらがき)で、角川の『大阪府地名大辞典』には、「天文6年4月30日の方便法身像裏書(木本勝太郎氏所蔵文書/富山県史史料編2)に「本願寺釈証如(花押)……永光寺門徒摂州住吉郡堀村 願主釈成法」とある。この裏書から、永光寺門徒である当村在住の釈成法を願主として、方便法身尊形が造られたことがわかる。」とあります。平凡社の『大阪府の地名』のほうも同じ内容です。


文責・駒井守

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堀村の今昔(4)

長居村の概観図


 大正時代の長居村

 明治22年(1889年)の町村制実施によって、寺岡・堀・前堀・山之内・杉本・杉本新田・庭井・我孫子・苅田の9村が合併して依羅村ができたのですが、明治27年(1894年)に寺岡・堀・前堀が依羅村から分離して新たに住吉郡長居村が発足しました。住吉郡は明治29年(1896年)に廃止されて東成郡となり、長居村は、大正14年(1925年)に東成郡が大阪市に編入されるまで存続しました。

 『大阪府全志』や『東成郡誌』は、この長居村の当時に発行されましたので、堀村の歴史の理解を助けるために、長居村の概略図を陸軍陸地測量部作製の地形図や都市計画図、土地区画整理図、明治時代初期の寺岡村や堀村の地割図などを参照して作成しました(使用ソフトは OpenOffice Draw と GIMP)。寺岡、堀、前堀は、町村制実施によって消滅した旧村を新たに大字(おおあざ)としたものです。

長居村の地名

 明治時代の地租改正にともない、土地台帳の整備のために行政区画として小字(こあざ)が設けられ、昭和5年(1930年)まで使用されました。字というのは、もともとは田んぼにつけた名前、畔名(あざな)のことですが、地租改正のさいにできるだけ漢字で表記するようにしたり、字を統廃合することもあったため、古来の地名が変わってことも考えられます。小字をふくむ長居村の地名をいくつか図示してみました。

①追分(おいわけ) 街道が分岐するところに多い地名です。江戸時代の地図には「ホリノ茶ヤ」「堀村之内追分村」などと書かれていて、茶店を中心に集落があったものと思われます。長居小学校の付近で、長居小学校の前身は追分小学校と称していました。長居村の役場も追分に置かれていました。

②栴檀城(せんだんじょう) 戦国時代に砦があったと伝えられているところです。

③鉄砲島(てっぽうじま) 周辺の村からも離れた場所ですので、人家を避けて鉄砲の試射をしたところでしょうか。

④大門(だいもん) 江戸時代から明治のはじめごろまで、大坂の町や周辺の村には、夜盗を防ぐための木戸門が、町の辻や村の出入り口に設けられ、木戸番が置かれていました。明治維新直後は夜盗や強盗が横行しましたが、警察の交番が配置されるようになって、木戸門はしだいに取り払われていきました。堀村では大門、⑦二の口、⑧門屋の三ヶ所の出入り口に番小屋が置かれていました。

⑤吉山(よしやま) 前堀村の村社である吉山神社がありましたが、明治40年(1907年)に祇園神社(現在の保利神社)に合祀されました。

⑥⑮横枕(よこまくら) 古代の条里制の名残の地名だと考えられます。

⑦二の口(にのくち、西の口とも) 堀の集落の西の出入り口の呼び名です。

⑧門屋(かどや) 堀の集落の北の出入り口の呼び名です。

⑨観音堂(かんのんどう) 瀧光寺ができるずっと以前は、堀村には観音堂があったのでしょうか。

⑩堂後(どうのしろ) 観音堂の北側(後ろ)です。

⑪境橋(さかいばし) 八尾街道の摂津国と河内国の境の井路(いじ、いろ)にかかっていた橋です。

⑫神楽所(かぐらしょ) 中世の堀村周辺には、石清水八幡宮の領地がありましたので、その名残かもしれません。

⑬山の防(やまのぼう) ここにも堂宇があったのでしょうか。

⑭白光(はっこう) これも八講田(はっこうでん)の名残かとおもわれます。

⑯鉾塚(ほこづか) 堀と前堀の墓地である東長居霊園があるところです。塚は古墳を指すことが多いので、かつてこの地に古墳があったのかもしれません。

⑰大町池(おおまちいけ) 『大阪府全志』では「長居池」を「大御池」としていますが、おそらく大町池の誤植で、江戸時代から大町池です。

⑱長居、焼野(ながい、やけの) 証如上人の『天文日記』にでてくる長居宿があったところでしょうか。石田末吉先生の『寺岡村小史』(1966)では、著名な弓師の中沢丹波が住んでいたところとしています。

⑲細井川(ほそいがわ、細江川) 寺岡村の環濠と依羅池の水⑳を集めて住吉大社の南側を流れ、住吉川となって大阪湾に注ぎます。日下雅義氏は『歴史時代の地形環境』(1980)のなかで、⑲の細井川と⑳の井路は、古代に段丘を人工的に開削した「住吉堀割」だとしています。

街道の交差点

 堀村の集落は、古代から街道の交差点に位置します。

A‐C 住吉街道 住吉大社へ通じます。
B‐G 阿部野街道へ接続する支線です。
D‐E 八尾街道 八尾と堺を結ぶ街道です。現在の長居公園通にあたります。古代の磯歯津道だといわれています。明治時代の地図を見ると、八尾街道が整備される前は道はまっすぐではなく、⑩の堂後で北側に曲がっています。
B‐F 高野街道 西高野街道へ接続します。
C‐H 百済街道 田辺へ通じます。
Y‐Z 古代の難波大道(なにわのおおみち、なにわだいどう)が難波宮の朱雀大路から真南に走っていたと考えられていて、大和川の南の今池遺跡からは路面や溝が検出されています。古代から摂津国と河内国の境界となり、現在は住吉区と東住吉区の境界となっています。


文責・駒井守

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堀村の今昔(3)

堀村に新堀城はあったのか


 地名は記憶され継承される

 自治体や行政区画の名称は人為的に変わることはあっても、その土地に刻まれた地名というのはなかなか消滅しません。
 たとえば、堀や前堀という旧村名は、中世にさかのぼることができ、明治22年(1889年)に依羅村となって消滅してその大字となり、明治27年(1894年)に旧寺岡村とともに依羅村から分離して長居村となりました。大正14年(1925年)に、長居村はじめ大阪市に隣接する郡部の町村が大阪市に編入され、大字堀、大字前堀はそれぞれ、住吉区東長居町、南長居町となりました。今では、住吉区長居東となり、堀や前堀の名前は、行政区画の名称や地図上から消滅しました。長居村以外の、旧依羅村に属した苅田や我孫子、庭井などの旧村の地名は、現在も行政区画の名称として残っています。

 しかし、大阪市編入による新町名から90年経っても、地元の住民同士では長居東地域のことを堀や前堀と呼びます。地名というのは、その土地の人々に記憶され継承されていくものなので、容易に消滅するものではありません。住吉や長居という地名も、古代や中世から存在していたものです。堺市北区新堀町も、中世の五個荘に新堀村として存在し、江戸時代に船堂村の一部となり、明治時代からは五個荘村大字船堂の小字の地名として継承されてきたものです。このような地名に関する歴史的な事実から、新堀城の所在地は、堺市北区新堀町付近だと推定することができます。しかし、新堀城の所在地を長居東の旧堀村だとする説もあります。

 新堀城の所在地は堀村とする説

 お城探訪ブームを反映して、1967年に出版された『日本城郭全集』(1967、大類伸監修、全16巻、人物往来社)の第9巻は、「新堀城(大阪市住吉区東長井町)」としています(解説文中でも長居をすべて長井としています)。『新修 大阪市史』第2巻(1988、大阪市)では、根拠はまったく示されていませんが、「信長は摂津に入って大坂を攻め、和泉に転戦して堺に近い新堀城(住吉区長居東)を攻略し」(同巻659頁)となっています。2005年に建て替えられた大阪府住宅供給公社の東長居住宅の敷地の西側に「長居東の遺跡」という案内板があり、その説明文には、堀村の村内には「新堀城跡(しんぼりじょうし)伝承地(堀村集落)があります」と書かれています(城跡の読み方は「じょうせき」か「しろあと」ですが、原文のままにしておきました)。堀村には築城の伝承はありますが、それが新堀城だという伝承はありませし、新堀という地名もありません。これら新堀城の所在地は堀村だとする説は、『日本城郭全集』の解説記事の内容から判断すると、『大阪府全志』や旧東成郡役所が発行した『東成郡誌』の内容とだいぶ重なっており、『大阪府全志』の著者は、新堀城の所在地は堀村ではないかと推論しているので、これに拠ったのではないかと思われます。

 根拠は堀村の築城伝承と環濠、八尾街道

 大正11年(1922年)に出版された『大阪府全志』(井上正雄編著、全5巻)第3巻「長居村」の「大字堀」の項目には、「(堀の字地三軒家が)追分茶屋といへるは、堺と住吉とに向へる道路の分岐点なるに依る。又村名の堀は、部落の四囲に濠池を繞らせしより起れるの称ならんか。里伝に依れば、往時城のありし所にして、濠池は在城当時に掘られしものなりと伝ふ。依て思ふに左に掲記せる惣見記に、堺の近辺なる新堀と見ゆるは本地にして、本地は取出の城のありし所ならんか」として『惣見記』の抜粋(前掲『織田軍記』の第15巻「信長公南方進発所々御働事」を載せています。また、保利神社の由緒の説明で「里伝に依れば、足利時代に周防守なる者本地に城を築きて居りし時、城の守護神として勧請せしものなりといふ」としています。

 つまり、『大阪府全志』で、新堀城が住吉区長居東の旧堀村ではないだろうかと推論する根拠は、旧堀村には昔、城があって集落の周囲に環濠が残っており、その城は足利時代(室町時代)に周防守という者が築いたものとする伝承があり、堀村の追分は住吉へむかう住吉街道と遠里小野をへて堺へむかう八尾街道の分岐点となっていて、堀村にあったとされる城は、『惣見記』が「堺の近所に新堀と云取出の城あり」と記す、いわゆる新堀城だろう、というのです。

 堀村の周辺にはかつて環濠集落であった旧村がいくつもあり、前回も『五畿内志』に、住吉区我孫子の旧我孫子村や住吉区長居西の旧寺岡村、堺市北区新堀町の旧新堀村の城跡が記載されていることを紹介しましたが、「堺の近所」で八尾街道沿いという点では、我孫子村や寺岡村のほうが、堀村よりも堺に近く、もっとも近いのが新堀村です。堀村や我孫子村、寺岡村にはそこがかつて新堀城だったという伝承や新堀という地名は残されていません。『大阪府全志』で著者の井上氏が堺市北区新堀町を新堀城の所在地としなかったのは、『大阪府全志』発行当時は、新堀は五個荘村大字船堂の小字だったため、気づかなかったのかもしれません。

 ところで、堀村にはたしかに、集落の外の、西側の地域に「栴檀城」(せんだんじょう)という地名がのこっていて、わたしが小学生だったころは歴史部の顧問をされていた教頭先生から「戦国時代に、砦があったところだ」と教わりました。戦国時代の天文8年(1539年)3月15日の本願寺の証如上人の日記には、平野の光永寺門徒として堀の者が登場し、堀村にもすでに本願寺の門徒衆が形成されていたことがわかります。しかし、この堀村にあったとされる小さな砦が、たとえ新堀城だったとしても、そこに立て籠もる落ちぶれた三好一族とともに、堀の門徒衆が命がけで数万の織田信長の軍勢相手に、無闇にたたかったとはとても考えられません(『日本城郭全集』では、落城後、堀村の集落ができたのではないかとしています)。長居公園やスタジアム、自然史博物館以外に、長居東付近に史跡と認められるものが1つぐらいあってもよいと思いますが、それは胸を張って正しいと後世に伝えることができる場合に限られるでしょう。


文責・駒井守

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堀村の今昔(2)

新堀城の所在地は堺市


 海船政所記

 新堀の城は、江戸時代の初期の堺の惣年寄・高志芝巖(たかし‐しがん)が著した、堺の地誌『全堺詳志』(ぜんかいしょうし)所収の『海船政所記』(かいせんまんどころのき)にも登場します。『海船政所記』の著者・大心義統(だいしん-ぎとう)とは、明暦3年(1657年)生まれの京都の大徳寺の273世住持で、大燈国師16世の法孫です。堺の禅楽寺(廃寺)の第3世住持も務め、古記録に詳しく、『墨江紀略』(ぼっこうきりゃく、「界府墨江紀略」、「住吉古実記」)という住吉と堺の地誌も著しています。堀も、大心義統が知らない土地ではなかったと思います。文明3年(1471年)、大徳寺の養徳院は、我孫子屋次郎の遺した、堀や苅田に散在する田畠の寄進をうけて領地にしています。

 『海船政所記』のあらましは、つぎのようなものです(原文は漢文)。
 三好長輝(みよし‐ながてる、本名は三好之長、四国阿波の国人で上洛して後に摂津守護代となりました)は、永正元年(1504年)、堺の海浜に東西三百六十歩(約654メートル)、南北はその倍もある大きな館を建て始めました(以下、海船館)。海船館の中央部には、眺望のよい高楼があり、高楼には鐘や太鼓、合戦で使う陣具(じんぐ)や兵器を貯蔵し、非常時に備えました。長輝は、親戚・名士らを一ヶ月交代の輪番で当直させ、備えにはぬかりがありませんでした。長輝は京都に居て自ら執政していましたが、堺の海浜が四国との運送に適していたので、この館を本館とし、摂津の尼崎の城、和泉の新堀城と岸和田の城、河内の小山と古市の諸城に三好の諸将を配置しました。長輝の子・三好長基(みよし‐ながもと、三好元長から改名)の代にすべて完成し、大永元年(1521年)に海船館は政所の号を勅されました。

 新堀城は堺市北区新堀町

 『信長公記』には、信長は塙九郎左衛門に命じて河内の諸城をことごとく破却させたとあります。城の遺構が平成の現在も残っていることはほとんど期待できません。しかし、『海船政所記』に記された城の地名とあわせて、現存する地名から推定することが可能です。

 古市の城は、羽曳野市古市にあった高屋城で、小山の城は藤井寺市小山付近、和泉の新堀城は堺市北区新堀町付近にあったものと考えられます。そうすると、小山の城と新堀城は、三好一族が摂河泉支配の拠点としていた、堺の浜の海船館と高屋城を結ぶ長尾街道沿いに位置することになり、堺の浜に近いほうの新堀城は『信長公記』や諸家記の「堺の近所の新堀という出城」「泉州堺近辺新堀城」とおなじ城で、新堀城は堺市北区新堀町付近にあったものと推定されます。

 さらに、江戸時代中期に関祖衡(せきそこう)・並河誠所(なみかわせいしょ)らによって編纂された幕撰地誌『日本輿地通志畿内部』(にほん‐よち‐つうし‐きないぶ、略称・「五畿内志」、1735年刊)第50巻には、住吉郡の古蹟として、喜連城のほかに今井兵部が據った我孫子城、寺岡村と船堂村の堡址(ほうし、砦のあと)などをあげています。このうち船堂村は江戸時代には住吉郡に属し、現在の堺市北区新堀町(旧新堀村)は船堂村の一部でした。「五畿内志」編纂当時は城跡がのこされていたか、伝承があったものと考えられます。「堺の近所の新堀という出城」という所在地名も一致します。


文責・駒井守
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堀村の今昔(1)

新堀城の所在地


 尻啖え孫市

 新堀城は、本願寺門徒として紀州雑賀党を率い、織田信長らとたたかう実在の人物・雑賀孫市(さいか‐まごいち)を主人公にした、司馬遼太郎の長編小説『尻啖え孫市』(しりくらえまごいち)に登場することで知られています。孫市は鉄砲を片手に本願寺門徒の大将として織田信長とたたかいますが、小説では、新堀の城は三好康長が河内の諸方に築いた城のひとつという設定になっています。新堀を司馬遼太郎は「にいぼり」とよませていますが、ここでは「しんぼり」とします。

 信長公記

 戦国時代、織田信長の家臣だった太田牛一(おおた‐ぎゅういち)という武将が晩年、『信長公記』(「信長記」、「安土記」)という軍記・伝記を著しました。織田信長の伝記には他に小瀬甫庵(おぜ‐ほあん)の『信長記』や、遠山信春(とおやま‐のぶはる)の『織田軍記』(「惣見記」、「総見記」)がありますが、いずれも『信長公記』にもとづいています。新堀城がでてくるのは『信長公記』第8巻の天正3年(1575年)「河内国新堀城被攻干並誉田城破却事」の条です。上洛をはたし、畿内統一をめざしていた信長は、石山本願寺と結んで最後まで抵抗する三好一族の最後の武将、三好笑岩(みよし‐しょうがん、三好康長)を大軍で攻めました。

 『信長公記』の記事の概略はつぎのようなものです。4月6日に京都を出発した信長は、羽曳野市古市付近にあった三好笑岩がたてこもる高屋城を攻めましたが、なかなか攻め落とせませんでした。そこで、4月12日に住吉のほうへ陣を替え、4月13日には天王寺に到り、五畿内はじめ各地の軍勢10万人余りが天王寺、木津、難波に陣取りました。そして、翌日、兵糧を絶つために石山本願寺へ押し寄せて、周辺の作毛(季節から考えると麦でしょう)をことごとく刈り取ってしまいました。つづいて4月16日、遠里小野(大阪市住吉区遠里小野と堺市堺区遠里小野付近)に陣取って、信長みずから近辺の作毛を刈り取り、4月17日から香西越後守(香西長信)、十河因幡守(十河一行)ら三好党の大将が立て籠もっている「堺の近所の新堀と申す出城」を包囲して攻めました。そして、4月19日夜、総攻撃を開始しました。諸手(しょて)でもみ合い、城に火矢を放ち、埋め草で堀を埋めました。すると、大手(おおて、城の表門)搦手(からめて、城の裏門)から切って出たので、香西越後ら大将の首を討ち取り、ついに新堀城を攻め落としました。高屋城に立て籠もっていた三好笑岩は、信長の家臣・松井友閑を介して降伏してきたので、信長は赦しました。

 泉州堺の近辺の新堀城

 この新堀の城は、『信長公記』だけでなく、『中山家記』には「泉堺之辺一城攻落之、河州高屋和睦也」、『松井家譜』には「堺之近辺新堀之砦」、『有吉家代々覚書』にも「泉州堺近辺新堀城」とあり、泉州堺の近辺にあったことは確かです。


文責・駒井守

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